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2017.03.16 Thu 月を見ることについての雑記

月を見上げるのは僕に言わせれば当然のことで、例えば外を歩いているとき、目を閉じて行くわけにはいかないのだから、開いている目をどちらに向けるのかといえば、当然美しいものの方ではないか。月を美しいと感じることに対して、疑問を投げる人はあまり居ないであろうから、僕の言い分に同調してもらっても罰は当たらないと思うのだが、実際僕が月を見上げている傍を、人々は前を向いて過ぎ去って行く。彼らは僕ほどに暇ではなく、次があって忙しいのかもしれない。映画のレイトショーの時間が迫っているのかもしれないし、恋人を駅に二時間も待たせているのかもしれない。ひょっとしたら次の仕事場へ向かっているのかもしれないし、走らなければ愛妻の湯がいてくれたパスタが伸びてしまうのかもしれない。馬鹿にしてもらっては困る、僕だって僕なりにそこそこ忙しい身なのだ。仕事が終わったなら早く家に帰って幼い我が子の顔を拝みたいし、ギターの練習なども一分一秒でもしたい。腹も減っているし酒も飲みたい。と、大した用事もない僕ではあるが(早々に認める)、僕なりに気の急くことは毎日ある。気は急いても、僕の場合は月を見上げてしまう。歩く方向が月と反対であれば、ちらちらと振り返ってまで見る。女性が後ろを歩いているときは、不審がられるのでそうはいかないが。目当ての電車に間に合わせたいなどで、走っているときでも、自身の運転に注意を留めながらも空を見上げる。視界の中に揺れる月の輝きと空の色を瞬間焼きつけては走り、走りながらまた見上げる。
時々、自分が常に何かに急き立てられているように感じられ、息が苦しくなることがある。知らず知らず眉間に皺が寄っている、そんなときだ。そんな自分に気づいたときは、夜の道で立ち止まる。慣性の法則、立ち止まるのは意外にも難しい。またすぐに歩き出そうとする自分がいる。前に引っ張られるような引力の幻をやり過ごしながら、焦りのもやを落としていく。空を見上げて、ミクロな僕らのいじましくもいじらしい営みとは無関係に佇む月と自分とを、真っ直ぐな線で結ぶ。そこだけを切り取れば、子どもの頃から現在に至るまで、何百回も見てきた同じ景色である。過去の幾つかの場面を思い出し、自分が歩いて来た道と今いる場所を確認したような気分になる。空気を抜き終えたら、新しい空気を入れる。変わらず月が輝いてくれることを、有難く思うのだ。

誰かと月を見上げるのは特別なことだ。美しい景色を共に眺めても、彼と彼女の着目する部分は少しずれているのが常だと思う。夕焼け空を二人で眺めても、男が地平の辺りの真っ赤な色に感動している横で、女は濃紺の空に星の瞬きを見つけていたりする。月を見上げるときは、二人とも月を見ているのである。あの光る丸いものを今この瞬間共有している、という一体感は一種独特のものであり、静かに心を重ねた記憶として胸に刻まれてしまう。
同じものを見ているという意味では、月を眺めていると昔の人と繋がっているような感慨が湧いてくることもある。かぐや姫の昔から、人々が見上げて感傷にふけった月は、今も変わらぬ姿を現代の僕らに見せている。

亡くなった人は月へ行くという話を聞いたことがある。つい先日、妻の祖父が亡くなった。妻の祖父は月へ行っただろうか。
地平近くで赤く不気味に輝く月ではなく、空高く上った月の清浄な光が好きだ。首が痛くなるまで見上げるが、出来れば土の上に寝転がり、眠くなるまで眺め、月の光を浴びてそのまま眠ってみたいと思う。月は自分が、この冷たく醜い凸凹の岩の塊が、美しく輝いていることなんて知らないんだろうな。
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