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2017.03.08 Wed アヒルの夜 最終話

森田がゆっくりとチャカの口を山口父に向け、引金に指をかけたそのときだった。
「お願いします」
ぐっすり眠っているように見えた山口父が口を開いたのであった。驚きのあまり森田は発砲しそうになった。が、なんとか踏み止まった。
「親父さん、あんた」
「やってください」
山口父は穏やかな声で続けた。
「わかってました。山田さん、あなたを初めて見たときから、あぁお迎えが来たんだって。私ね、待ってたんです。だから、これで終わりだから、ずっとやめていた酒も最後だから飲みました。美味かったなぁ。山田さんには感謝しなくちゃ。私は今とても良い気分なんです。だから山田さん、さぁ撃ってください。健には、お父さんは…」
じゅん、じゅわ。森田は急転直下突然の尿意の猛攻に襲われた。NYOUI、世界を震撼させるテロリストだ。山口父の穏やかな声で森田の緊張の糸が途切れた森田の膀胱は一瞬にして、昨夜の深酒と深夜の冷え込みに引き起こされた最大級のTSUNAMIの餌食となった。
「ぬぉぉ…!」
山口父の言葉を遮って森田は獣のような声を上げた。このままだと借りものの衣類はおろか、森田の股の下で寝ている山口父までビショビショにしてしまう。それはこれから死にゆく者に対する敬意をあまりにも欠くことだ。あと掛け布団が小便で汚れるということなども考えたくもない。
「すいません、ちょっとトイレ…!」
森田は飛沫を散らしながら駆けて行った。
「大丈夫かい、山田さん、あんたどこか悪いんじゃ…」
山口父の声を背中で聞き流し、森田は懐かしい山口家のトイレへ駆け込んだ。
トイレが近かったため幸い大惨事は免れたが、それでもトイレットペーパーを使って濡れた衣類に対する応急処置を施さなくてはならない。冷静に事に対処する森田の背後、トイレのドアの外側でバタバタと物音が聞こえた。誰かがトイレの前を通ったようだ。そして玄関から外へ出て行った。さらに夜道を駆けて行く足音が聞こえる。あっ逃げられた。
森田は慌ててトイレを出て、山口父を追って夜の町へ駆け出して行った。
「待てコラァーッ!」
森田の叫び声が町内に響き渡る。足音の遠のいて行った方向の見当をなんとなくつけて、要は半分当てずっぽうに、森田は走った、ナップサックを揺らして。夜空の色が少し変わった気がする。夜明けが近いのか。途中の角を右に曲がる。すると、50メートルぐらい先に人影が見えた。人影はこちらを見て、弾かれたように走り出した。暗くて顔は見えないが、山口父に違いない。山口父は右に曲がり、路地へと逃げ込んだ。急がねばまた見失う。
「待てぇー!待って、お父さん待って!」
森田は叫び、走った。吐きそう。だが止まるわけにはいかなかった。止まるわけにいかないんだっけ?わからなかったがとにかく走った。走ることで視界が揺れて、街灯の明かりがビヨンビヨン動いて、目眩もしてなんだか悪い夢みたいだった。山口父が逃げ込んだ路地に入ると、またもドン突きのT字路に山口父が見えた。山口父はまた右に曲がり、小走りで森田の視界から逃れた。八十のジジイがどんだけ走るねん…息も絶え絶えに、森田は山口父を追った。T字路に突き当たったとき、森田は肩で息をしながら不思議に思った。左に行けば大通りである。車の往来もある。なぜ山口父は右にばかり曲がるのか。小走りに走りながら森田は思い出していた。駅前の店へ飲みに行ったとき。あのときも山口父は右にしか曲がらなかったように思う。やけに店が遠く感じたのは、実際に遠回りだったのではないか。森田の頭の中で、ある結論が形づくられようとしていた。
次の角に差し掛かるところで森田の限界が来た。森田は街路樹の根元に思いっきり吐いた。つらい…
しばらく吐き続け、ようやく顔を上げて右を向いたら、そこには行き止まりの塀の前に佇む山口父がいた。山口父は、もはや逃げ場がないことを認めているようで、ある意味仏像的にこちらを見ていた。あれだけ走ったというのに、凍りつくような月灯りの下、息すら上がっていないように見えた。森田はヨタヨタと山口父に近づきながら言った。
「親父さん、あんたまさか左折を…」
「…断っています」
月に照らされた山口父は真っ白な顔で答えた。森田は立ち止まった。山口父まではあと五メートル程だ。
「やっぱり、そうでしたか…。それにその足。ブーツを履いているね。今思えば親父さん、あんたは出会ったときから今までずっとブーツだった。履きにくかっただろう、走りにくかっただろう。追いかける側からしたら、足音がよく聞こえて助かったけどね。親父さん、あんたひょっとしてスニーカーやサンダルも…」
「…はい。断っています」
森田はナップサックからチャカを取り出し、叫んだ。
「今、食べられるものはぁ!」
山口父の青白い顔が苦悶に歪んだ。そして答えた。
「ふ…フライドポテトぐらいしか…もう…」
「なぁぜだぁー!」
チャカを山口父へ向けて、森田は叫んだ。山口父が地面に膝を着いた。そして涙を零し、答えた。
「断ってしまったからです。刺身も、おでんも、唐揚げも、とん平焼きも、山芋とろろをフライパンで焼いたようなやつも、チャンジャも、釜飯も、もも貴族焼も!タレも!…そうです。三十年ほど前、私は妻を失いたくなかったがために、結局は自分可愛さで、息子の運命を大きく狂わせてしまいました。最愛の息子を実質失い、私自身にはこれ以上なくすものなどありませんでした。…それでも!それでも私は断ち続けました。私の願いは一つでした。息子の幸せがこれ以上奪われないように。それだけを祈りながら好物を月2ペースぐらいで断っていったのです…。そして、ついに私にはフライドポテトぐらいしか食べられるものはなくなった。遅かれ早かれ栄養不足で死ぬのです。妻の元へ旅立つ覚悟はできています。山田さん、息子には、父は意外にもロックな奴だったよとお伝えください」
シャカ然として語る山口父の一方、森田は今もハァハァと荒い呼吸のままであった。整わない呼吸のまま、森田は山口父に問うた。
「じゃあなんで逃げたんですか。お迎え待ってたんとちゃうかったんですか」
山口父は目を閉じ、黙った。
「答えてくださいよ!」
森田が追い込む。
「怖くなったねん…」
人間・山口父は極小の声で答えた。なんで変な関西弁やねん、とは敢えて考えず、森田は山口父に更に問いかけた。
「最後やからって、酒呑んだんはなんでなんですか。息子のために辞めてたんなら、自分が死ぬからって関係ないでしょ。そんなん、矛盾してるやん。ロックちゃうやん」
「呑みたくなったねん…ロックってなんなん」
森田は一度下ろしていたチャカを構え直した。
「ぶり大根頼んだのも、おんなじ理由かぁー!」
山口父の顔にまず驚きの表情が浮かんだ。続けて入れ替わりに、いやらしい人間臭い生々しい、照れ笑い的なやつが浮かんだ。森田の頭の中で何かが切れた。
「死ねぇーーーーっ!!」
森田が叫び、引金に力を入れかけた、その時だった。
「もうやめてぇーーっ!!」
何者かが叫びながら、袋小路の塀から飛び降りて来て、山口父と森田の間に割って入った。
「やるなら俺をやれーーっ!!」
稀代の唐突男、山口健その人だった。
「えっ何この茶番」
森田はとりあえずぶっ放したい衝動に駆られてそのまま空に向かってニ発発砲した。明け方の空に、気持ちの良い音が響いた。

山口氏は昨日の朝、森田の家を訪れ森田の不在を確認した後、どうしても事の成り行きが気になって、夕方で動物病院を閉めた。そこから夜通し、東京からバイクを飛ばしてここ山口県山口市まで来たらしい。そして夜明け前、地元に辿り着いたとき、たまたま路地を逃げる父と父を追う森田を目撃し、一部始終を隠れて見ていたのだと言う。
森田はそれについてはもう「へー」としか思わないことにした。バイクで来たんやー、と森田は思った。なんで新幹線ではなく?などとは考えない。バイクを飛ばすことに意味があることもあるのだ。
すっかり朝になり、彼ら三人は山口家の居間にある炬燵に入り、古くなった蜜柑を食べていた。山口父も山口も、蜜柑は断っていなかったようだ。いずれにせよ彼らは和解し、これからはお互い、好きなものを好きなだけ食べようと伝え合っている。
まずは手始めに寿司だ、と盛り上がっていて、それはそれでいいのだが、おれの報酬はどうなったのか。山口君に聞くと残念ながら九百万は渡せないが、代わりに寿司をご馳走するという。森田にはもはや怒る元気も、道理がいかないことを正すだけの人間力も残されていなかった。庭を猫が通り過ぎた。

昼前、開店直後の寿司屋に彼らは入店した。
「三十年ぶりだな、健」
「あのとき俺はガリしか食べられなかったけど、今日は違うよ」
あ、ここが例の寿司屋なんや、と森田は二人の会話を聞いて知った。
「さぁ頼め、健」
「うん…大将、マグロひとつ」
「こっちには、ブリを…!」
山口父が息子に続き注文する。あっという間に寿司が二人の前に並んだ。寿司を掴む二人の手は少し震えている。いやお父さんあなたブリ昨日食べましたやん!森田は一人で心中お茶を吹き出していた。二人は寿司を噛み締めた。そして、見つめ合い、涙した。
「…美味い…」
「今母さんがそこで笑った気がした」
森田は思った。何この茶番。

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Comments

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山田バンケット : URL

#- 2017.03.16 Thu 18:04

楽しく読ませていただきました。
僕的ハイライトは「山田って誰?」
でした。

あんた、天才や!

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