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2017.03.06 Mon アヒルの夜 第三話

山口の家から帰った後、森田は熱い風呂に浸かった。山口の身の上話を聞いている途中から震えはおさまっていたが、体の芯に冷えた異物感のようなものが残っていた。それを溶かすつもりで、ゆっくりと熱い風呂に浸かった。風呂から出て、茹だった半裸の体をソファに任せる。力を抜いて、殺風景な部屋に視線を漂わせる。散らばった思考がゆっくりと沈殿して、ゼリーを泳ぐボールになるのが見える。
森田は窓辺に置いたチャカを手に取った。その時、窓の外にパトカーが見えた。心臓を口から吐き出しそうになった。と同時に、それほど驚いていながらも森田は迅速かつ驚愕のナチュラルアクションで窓からフレームアウトし、そしてカタツムリになったつもりで目だけ改めてフレームインさせてる感じで窓の外を見た(実際は顔の上半分がフレームインしている)
パトカーは森田の家のすぐ脇に停まっていた。森田の家の脇は、イコール山口の家の脇でもある。山口の家はまだ灯りが燈っていた。お巡りさんそっちです、その家です!心臓を喉に詰まらせ、口元を左手でおさえながら森田は念を飛ばした。口元をおさえながらも口は閉まらず「ぁぃぁぃぁぃ」と声が漏れる。チャカを握る右手は汗でえらいことになっている。暫くすると、パトカーはゆっくり走り出して見えなくなった。
気がつけば全身が脂汗で濡れていた。目眩がして胃にむかつきを覚えた。「ハーッ」というおっさんの、おっさんによる、おっさんのための溜息が全力で出た。
「ハハハ!」とりあえず笑い飛ばしてみたが顔が100%真顔のままであった。何だったのだろうか。心配いらない、本編には全く関係ない単なるパトロールにたまたま出くわしただけであろう。
「国家権力ください」
謎の言葉を口走り森田は、死んだ魚の目でチャカをリュックサック、いやナップサックにしまい、しっかり震えが戻ってしまった体でそのまま旅支度を始めた。早いところ仕事を済ませた方がよさそうだ。

翌朝、森田は新幹線に乗り込み、山口の生まれ故郷である山口県山口市へ向かった。
山口の故郷は、どこか懐かしい感じのする、長閑な、どこにでもある感じの、コクがあってそれでいてキレのある町だった。森田はぶらぶら歩きながら、地図を見て山口の父親が今も住む山口の生家へ向かった。
途中、赤子を乗せた自転車を漕ぐ母親とすれ違った。何が可笑しいのか、赤子は赤い顔でケラケラ笑っていた。
犬を散歩させる女の子ともすれ違った。犬はなぜか水から上がったときのように体をブルァーッと激しく震わせ、震わせ過ぎて脚をもっていかれてアホみたいなダンスを踊り、なんとか転ばずにすんだ。
みんないつか死ぬのに、赤子も犬も可愛かった。暖かい冬の昼下がりであった。
うっすら想像していた通り、山口家は豪邸だった。昔ながらの日本家屋から黒光りした歴史が感じられる。
「立派な家やなぁ」
森田は思わず一人ごちた。ぐるりを囲む塀の向こうにはそこそこの広さをもった庭があるようだった。庭の一角の塀に近い場所に、年季の入った柿の木が一本生えている。
場所がわかったので一旦引き上げる。昼に殺しは似合わない。夕暮れ時に出直すのだ。森田は回れ右してその場を後にした。
夕暮れまでは、まぁ観光でもするとしよう。と言っても山口に関する予備知識は森田にはない。いやこう書くと、まるであのお向かいの獣医師である山口氏に関する予備知識がないみたいだがそうではなく、山口県とか山口市に関する予備知識がないのだ。ややこしいのでこれからは山口君のことは山口氏、あるいは山口さんか山口君と書く。山口氏と書こうとして山口市に誤変換してそのままにするとか、またその逆のパターンとかが起こったときは許してほしい。高度情報化社会の荒波の中で日々鍛え上げられたその類稀な脳力で乗り越えてほしい。眉間に皺を寄せ、そんなことを思いながら気がつけば森田は駅前の昼からやっている居酒屋へ吸い込まれていた。

夕方、出来上がった親父が一人馴染みのないアウェーの町を歩いている。森田である。森田は自分の子ども時代のことを思い出したりしていた。町の感じとか夕暮れの感じとか、家々から漂う夕飯の香りとかの色々がそうさせたのであった。みんな元気か…
山口氏の生家に着いた。勢いのままにピンポンを押す。飲んだのは勢いをつけるためであった、という後づけの理由が頭上を飛び越したカラスから落ちてきて森田の頭にふわりと着地した。少ししてピンポンから「はい」と返事があった。男の声である。
「私山口さんの友人の、山田と申しますが、山口さん、山口健さんはいらっしゃいますか?」
偽名を使うのは当然のことで、むしろマナーである。ピンポンから若干困惑ぎみの声が答えた。
「少々お待ちください」
玄関から男が出てきた。くたびれたセーターにくたびれたズボンといういでたちだが、どことなく品が残っている。顔も松方弘樹風の男前で、年はいっているのだろうが健康そうに見える。この男が山口氏の父親であろう。一見悪人っぽくは見えない。山口君にはあまり似ていない。彼は母親似なのかな?山口父は怪訝そうに、森田の立つ門の方へ歩いてきた。
「どうもすみません。私山口さんの、健さんの古くからの友人で、山田といいます。健さんはいらっしゃらないですかね」
森田は改めて山口父に言った。山口父が答えた。
「健がいつもお世話になっております。いや、健は来てないです。東京の方で、獣医をやってまして、そっちにいると思いますけどね」
「あ、東京で獣医されてるのはもちろん知ってます。私、仕事で少し関わってますから…」
じゅん。森田は急転直下突然の尿意のビッグウェーブに襲われた。不意打ちを受け流すことができず、森田のパンツが瞬時にしてヤクルト半本分ぐらい濡れた。
「うっ!」
森田は内股で姿勢を落とした。
「どうされました、大丈夫ですか」
苦しそうに森田が言った。
「お父さんすみません、お手洗いお借りできないですかね」
その瞬間、森田の堤防に大きなヒビが入った。堤防を越えて荒れ狂う波濤が周囲を猛烈に濡らし始めた。被害は一瞬にして甚大なものとなった。
「ぬぉぉ…」
森田は膝から崩れ落ちた。酒飲んで底冷える町を歩いて、立ち止まってたら急にこんなことになってしまうことが、あるのだ。人生、どこに落とし穴があるかわかりはしない。

十分後、山口父にパンツとモモヒキとズボンを貸りた森田は、山口家の居間で山口父に淹れてもらった茶を飲んでいた。
「本当にすみませんでした。お恥ずかしい」
森田はもう完全に帰りたい気持ちに駆られていた。だけれども帰ればお向かいには恐ろしい息子の山口。汚れたパンツとズボンは今山口家の洗濯機で回っているし、目の前の親父の山口に借りたパンツとモモヒキとズボンを、くれとも言い出しにくい。
「どうするかなぁ!」
悲嘆に暮れた森田が思いきり声に出してしまった心の声をスルーして山口父が森田に言った。
「健とは、もう長い付き合いでいらっしゃるんですか、山田さん」
森田は答えた。
「そうですな…元はといえば師匠と弟子の関係だったんですが、今や彼とは歳の離れた飲み友達みたいなものでして、しょっちゅう顔を合わせては最近の獣医学界についての愚痴を言い合いながら飲んでいますよ」
「あぁ、山田さんも獣医さんでいらっしゃるんだ」
嘘である。罪のない嘘だ。森田は筋金入りの無職である。行きしの新幹線の中でみっちり考えてきた設定はパーペキである。森田はさらに答える。
「ええ獣医です、それも珍獣限定のね。二年前、長年の活動が認められてアニマルノーベル賞を貰いました」
「へぇ!それは、すごいことなんでしょうね。私、息子が獣医やってるくせになんですが、そっちの世界にはてんでうといもんだから、そんな賞があるとは存じ上げなくて。お恥ずかしいです」
山口父は、息子の師匠に対し失礼があってはいけないと気を遣ってか、割としっかりと食いついてくれている感じがする。
「いえいえ、私はTVとかにもあまり出ないようにしてましたし。あ、天才!志村どうぶつ園には出たな」
嘘八千万ではあるが、ドライブがかかりかけている感はある。帰りたい気持ちはまだ背中にひしとしがみついているが、このまま頑張って山口父とすっかりうち解ければ、安心しきったところをズドン!とミッションを完遂できるかもしれない。森田に名案が浮かんだ。
「私志村どうぶつ園、たまに見ますよ。あれに出られたんですね。いや、すごいですな」
「ありがとうございます。色々と面白い話もありますよ。そうだお父さん、不躾な話ですが、よかったら酒でも飲みませんか。私今日は予定もないから、ゆっくりできますので。晩ご飯、もうお済ませですか?」
「いや、晩はまだですが…」
「なら、是非ご一緒しましょう。駅前にいい店があるんです」
半ば強引に、森田は山口父を連れ出した。外はもうすっかり暗くなっていた。西の空に金星が輝いている。時刻は六時半。寒いが、春の気配をどことなく感じさせる宵の口だ。山口父が、駅に行くならこっちだと、森田を制し前を歩いた。当然、森田は土地勘に優れる山口父に前を譲ったが、店に着くまでの時間を考えると、なんだかえらく遠回りをした感じがした。駅前の辺りでは、ここで曲がればもう店に着くという角を通り越したのに、特にコンビニ等に寄るわけでもなく、かと思えば急に小道に入り込んだりする。ボケているのかな、と少し思ったが、足取りはしっかりとしていたし、迷うことはなく店に着いたので、ボケているわけではないようだった。

「熱燗ください」
森田が店員に言った。さっきまで居たよねあなた、とめっちゃ思った店員は、でもそのことは口には出さず後でSNSで呟こうと思いながら「お猪口は何個お持ちしましょう?」と返した。
「お父さんどうされます?熱燗でよろしいですか?生?」
森田は山口父に聞いた。
「いや、私はお茶で…」
山口父がもごもごと言う。
「あれ、お父さんお酒は飲まれないんですか?どこかお体がお悪いとか?」
「いや、飲めないわけではないんですけどね。もう何年もやめてまして…」
そんなこと言われても、飲んでもらわなきゃ困る。酔ってもらいたいんですよお父さん、酔ってコロッと寝てもらいたいんです。森田は食い下がった。
「いいじゃないですか、たまには!久しぶりに、ねっ、息子さんの話でもしながら」
「でも…」
「まぁまぁ、お父さん!このとおり!お兄さん、お猪口二つね」
森田が押し通した。
「お酒、飲んでらっしゃった頃は何を飲まれてたんですか?」
森田はどことなく固まったムードをほぐそうと山口父に問いかけたが、山口父は難しい顔で黙っていた。やがて、燗酒が運ばれてきた。森田が二つの猪口に酒を注ぐ。
「さっ、とりあえずやりましょう。乾杯」
森田は自分の猪口に口をつけながら、横目で山口父を見ていた。膝の上に手を置いたまま暫しカウンターに置かれた猪口を見つめていた山口父が、おもむろに猪口を手に取り、あおった。目を閉じ、久々の酒を味わっているようだ。
「美味い」
目を閉じたまま、山口父は言った。なんかちょっと異様やな、森田はそう思いながら山口父の猪口に酒を注いだ。
「美味いですね。山口の地酒ですねこれ」
森田も負けじとあおる。酔わんと正直しんどい。書いてませんでしたが森田ずっとナップサック背負ってます。もうなんやったらチャカの形浮き出てる。時々背中にあるもの思い出して震えがくる。うっかり背もたれにもたれて背中でチャカカーンを感じた時ほんまにびっくりする。誤って背中で発射したら大変。安全装置やってもらったけど、森田まだ心配。よって森田には酒が必要。
二合の徳利はあっという間に空いた。しかし飲んだのは七割がた山口父であった。
「美味い!もう死んでもいいなぁ」
久々の酒で少し心地が緩んだのか、山口父は明るく言ったが、「死んでもいい」という言葉に森田はドキッした。そして、山口父が最近妻を亡くしたことを思い出した。
「遅くなりましたが、この度はご愁傷様でした」
森田が言うと、山口父は少し驚いた様子だった。
「知ってらっしゃったんですか。気を遣わせてしまって、すみません」
山口父はそう言い、また猪口をあおった。肴は意外にもフライドポテトである。山口父は森田が頼んだ刺身には全く手をつけず、フライドポテトで呑んでいる。フライドポテトばかり、二皿目なのだからよっぽど好きなのだろう。
「姉さん女房でねぇ。私より十も上でしたから。八十八で逝きました。先月、えらく冷え込んだ晩でしてね」
突然だが森田は実は泣き上戸である。山口父から与えられた妻に関する情報量はごくわずかなであったが、森田の想像力と涙腺を刺激するには充分であった。森田の双眸からは涙が滝のように流れていた。それを見た山口父の目からも涙があふれた。
「山田さん、あんたって天使みたいな人だね」
そう言って山口父は男泣き状態に突入した。もはや森田は「山田って誰」と思いながらもう泣き過ぎてヒックヒック言い出していた。
「天使…ヒクッ、じゃヒクッ、ない…」
森田は目をこすりながら言った。急にジジイとおっさんが本域で泣き出す展開に周りの客は衝撃を覚えながら後でSNSで呟くことを胸に誓いつつ、しらこい顔で呑んだり騒いだりしていた。
「もう…ヒクッ、イヤ…ヒクッ、や…」
森田はなんか最近のストレスとかも相まって、しかももう今日六、七合は呑んだし、なんかもうおかしくなってめっちゃ泣きながらカウンターに突っ伏した。急速に遠のいていく意識の中、山口父が店員に「ぶり大根」と言っているのを聞いたような気がした。

冷たい夜風みたいなものを頬に感じた。誰かに背負われている。また意識が飛ぶ。街灯の明かりに目が眩む。右に曲がる。頭が痛い。吐き気がする。また右に曲がる。森田はまた気を失った。
目を覚ましたとき、見知らぬ部屋で森田は寝ていた。しっかり布団がかけられている。頭が割れるように痛い。天井が近づき、また遠のくのを百回ぐらい見て、体勢を変えた。水が飲みたい。森田は部屋の中を見回した。目線を動かすと吐きそうだ。なんとなく、そこが山口氏、あの山口健がかつて使っていた部屋であるということが森田にはわかった。
水を飲みに、台所へ向かった。窓から外を見ると、月の光に照らされ、寝静まった夜の町があった。どうやら真夜中に目が覚めたようだ。森田が寝ていた部屋の隣の部屋から、いびきが聞こえた。山口父がこの部屋で寝ているに違いない。森田は居酒屋での記憶を呼び起こそうと努めた。あろうことか山口父よりも先に酔い潰れて寝落ちしてしまったらしいことは思い出せる。誰かにおぶさって夜道を移動したような気がするが、もしや八十に近い山口父に背負われていたのだろうか。店で勘定した記憶もないから、金まで出させてしまったのだろう。頭を山口父の眠る部屋に向けて垂れながら、「恩に着ます」と森田は胸の内で呟いた。
そして台所で水を飲み森田は気づくのだった。恩に着てる場合じゃなかった。殺らなきゃ!そのとき、森田は自分がナップサックを背負っていないことに気がついた。脳髄が揺れるような特大の心臓の鼓動とともに、視界が青い閃光に包まれたような感覚に陥った。瞬時にして肌が泡立つ。マズ過ぎる。寝ていた部屋に慌てて引き返したが、部屋のどこを探してもナップサックは見当たらない。
山口父が奪ったのだろうか。それとも夜道に落としたか。居酒屋に忘れていたら最悪だ。落ち着け森田茂。森田は深呼吸した。そして焦りと極度の緊張から込み上げてきた涙を堪えて立ち上がり、山口父の眠る部屋へ向かった。
静かな夜である。周りの家々からも物音ひとつ聞こえない。山口父の部屋も静まりかえっている。先ほど聞こえたいびきがいつの間にか消えていたが、代わりに穏やかな寝息がかすかに聞こえる。不用心にも雨戸を開け放したままの縁側から月の光が眩しいほどに差している。月光を背に受けながら、森田は音を立てないようにゆっくりと襖を開けた。
月灯りが開けた襖から部屋の内側まで伸びる。目を慣らすまでもなく、部屋の真ん中の布団の上で眠る山口父が見えた。
森田は心のどこかで、もうこのままチャカが消えてなくなればいいと思っていた。帰って山口に申し開きをした上で、しかし頑張ったのだから金はくれと頼むのだ。一千万とは言わない。八百万ぐらいでいい。その金を半分ぐらいになるまで遊んで使い、残り半分になったら何か仕事をしよう。ちゃんとした仕事を。もう五十六だけど嫁も探そう。ーとびっきり若くて美しい女をー
だがチャカは見つかった。山口父の布団の脇、森田から見て手前側にナップサックが置いてあった。薄い生地の下の銃身の輪郭が、月光に照らされ立体的に浮き上がっている。森田は忍び足で部屋に入り、ナップサックへと向かった。汗をかいているのは何故だろうか。一歩。心臓が高鳴り続けて多分そろそろ限界だ。一歩。終わったら温泉に浸かりたい。一歩。持ち慣れた重さのナップサックを左手で拾い上げ、巾着の口から右手を滑り込ませる。山口父が起きる気配はない。森田は山口父を跨ぎ、彼の上で仁王立ちになった。ナップサックの中で安全装置を外す。抜き身のチャカが死神・森田の呪われた腕にいざなわれ、恐怖のナップサックからその漆黒の姿を現した。
「親父さん」
チャカをゆっくりと真下の山口父に向け、最高級にドスを利かせた声で森田は言った。
「死んでもらいます」

続く
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