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DIARY

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2020.08.20 Thu まどろみ

「え、ひょっとしてこれ、始まっちゃうの?」
そうだよ、もう始まるよ。
「えー」
ようやく始まるんだよ。嬉しくないの?
「うん、おれ、始めるのちょっといやだな」
どうして?
「いやっていうか、こわい。だって、始まったら終わっちゃうでしょ」
・・・
「いつか終わるとき、かなしいよね。それがいやだからさあ」
・・でも、始めなかったら何もない、終わりすらないんだよ。それはさみしいでしょう。
「たしかに、それはさみしい。だけどなあー」
せっかく始められるのに、もったいないよ。それに、始まったら終わるのはなにも君だけの運命ってわけじゃないんだぜ。誰だっていつかは終わるんだから。
「そうだよ、そんなことはわかってる。それについてはおれはもう長いこと考えたんだから。おれだって始めたくないわけじゃない。ほんとうはそのことを考えると、胸がぐんぐん痛くなるぐらいにときめくんだ。どんな楽しいことが待ってるんだろう。どんな素敵な人にめぐり合うんだろう。どんなに美しいものを見ることができるんだろう、って。だけどだからこそ、いつかそれがまるで何もなかったかのように終わってなくなってしまうのがかなしくてならないんだ」
・・・
「いつか終わってしまうのに、始めることに意味があるんだろうか」
意味って。
「意味なんてないよな。意味なんてものはないんだ。あるのは光と闇だけだ。痛みとよろこびだけだ」
ぼくは先に始めることにするよ。ぼくたち、また会うだろうか。
「会うわけないだろう・・・会うというのは、どういうことだい」
土の中や水の中、風のにおいの中に存在を感じることさ。実感として感じることだ。
「感覚を研ぎ澄ませていれば、あるいは」
そう考えたら、ぼくたちは終わった後でも会えるのかもしれないね。
「おれが始めなくてもかい?」
どうだろう。もうぼくは行くよ。さよなら、またどこかでいつか。
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2020.07.14 Tue ソイミルク・ウインドミル その4

午前三時、前田さんと私は人目を避けながらラブホテルを出た。
ホテルに入る前ぐったりしていた前田さんは今やすっかり回復したようだった。反対に私はひどく疲れていた。右手に下げた一リットルの豆乳の入ったビニール袋が重たく感じられた。
前田さんがビニール袋を見ながら言った。
「ずっとそれ持ってますね」
なぜいつまでも豆乳をぶら下げているのだろう私は。
「お守りみたいなものです」
とりあえずそのように答えた。捨てるわけにもいかないし。

通りにはまばらに車が走っていた。私達はタクシーを探した。
タクシーを探している時、前田さんがここで別れましょう、と言った。なぜ、と私は言った。
前田さんと離れるのが素直にいやだった。本当は今すぐ帰りたいと強く思っている。眠いし疲れたし、敵の中枢に飛び込んで行くのは正直御免こうむりたかった。
それでも最初に感じたのは、前田さんと離れるのがいやだということだった。私の心の深い部分が、ここで前田さんと別れることを拒んでいる。
街道沿いの歩道の街灯の下で前田さんと私は暫し沈黙し、見つめ合った。前田さんが口を開く。
「山田さんをこれ以上危険に巻き込むわけにはいきません。それに、山田さんを守りながらNHKと闘うのは厳しいです」
私は思った。山田って誰、と。私だ、私の偽名だ。一瞬本名を名乗ろうかと思ったが、まぁどうでもいいかなと思いやめた。
要は私がついて行っても足手まといというわけだ。それは実際そうだろう。そこに反論の余地はない。
だが離れがたいものは離れがたいのだ。一人戦地へ向かう彼女をここで見送るなど、私にはできない。したくない。
前田さんが少し背伸びし、通りに向けて手を挙げた。タクシーがハザードを焚きながらこちらへ近づいてくる。
特殊能力を持たない一般市民として、彼女を支援する手立てはないか。考えろ、ここで妙案が浮かばなければ何のための学歴だ、義務教育だ。私は何のために大学へ通い一杯百八十円のはいからうどんを食べ続けたのか。
考えろ、考えるのだ。
私は固く目を閉じ自らのニューロンやらシナプスやらを激走した。ふと、暗いトンネルの向こうに光を見た。
タクシーに向けて挙げた前田さんの手首を私の手が掴んだ。タクシーが我々の側に停まった。
前田さんはいつもの無表情だ。いつのまにか汗まみれの私は言った。
「今からNHKに受信料を支払いに行きます」

深夜、道は空いておりNHKの電波塔までタクシーはスムーズに走った。道中敵に遭遇することもなかった。電波塔まであと一ブロックの所で我々はタクシーを停めた。
私がNHKへ行くことに、もちろん前田さんは反対した。だが受信料を支払うのは私個人の問題であり、法律上定められた義務ですらある。あなたは私を犯罪者にされるおつもりかと問うと、前田さんはため息をつき、タクシーのシートに深くもたれ「好きにして」と言った。
私たちは車中、小声で作戦を練った。即席の作戦は自ずとシンプルになる。そして大概、シンプルが結局ベストなのだと私たちは自分たちに言い聞かせた。
これより生まれたての作戦を決行する。私は一人タクシーから降り、何も言わず車中の前田さんを見つめた。そして私はタクシーから離れた。
確かな足取りで電波塔の方へ歩き始める。気分としては悪事がばれて警察へ出頭する時のように沈んではいるが、やるべきことが明確なので意外に落ち着いてもいる。
その時、前田さんがタクシーを降り私を追いかけてきた。
「前田さん、作戦どおりに。タクシーへ戻って…」
「ごめんなさい。言いたいことが、言わないといけないことがあって…山田さんが最近NHKに狙われていたのは、私のせいなんです」
午前四時前の路上では小さな前田さんの声もよく響いた。前田さんは続けた。
「この町に来てしばらくの間は平和でしたが、最近周りにNHKの影を感じるようになりました。私はNHKの目をくらませようと、スーパーに毎日やってくる人の中からあなたを選んで、あなたの買う惣菜に私の血を少しずつ混ぜたのです。そのうちに、毎日私の血を取り込んだあなたからは超能力の匂いがするようになっていたのです。その匂いはNHKを引きつけます」
ちょっと待って、頭の中で処理が追いつかない。前田さんは何を言っておられるのか。脳内で火曜サスペンス劇場のテーマがガンガン鳴って耳から少し音漏れしている。
けれど私は驚きとともに、よく判別のつかない不思議な感情になっていた。昔、裁判員制度が導入されたその年になぜか裁判員に指名されてしまった時のことを思い出した。どうして私なのだろう。
前田さんは一度深く呼吸し言葉を継いだ。
「先ほどホテルであなたのパワーを回収しました」
「あっ」
前田さんの中で果てる時、これまで一度も感じたことのないような激しいエネルギーの放出と、強烈な脱力感を感じた。ブラックホールに吸い込まれるようにして、魂の一部がもっていかれるような感覚だった。
あれは、私の中から超能力パワーが前田さんに回収された感覚であったのだ。
超能力パワー、我ながら頭痛が痛い、夜のナイトハイクみたいな言葉だが超能力パワーだ。なんとなくずっと保たれていた体力的余裕がその後なくなったのは、超能力パワーを失ったことによるのかもしれない。
「あなたから回収したパワーで、私は元気になりました。そしてあなたから超能力の匂いは消え、今後あなたがNHKから狙われることはなくなります」
前田さんは俯きがちに話した。暗くてよくわからないが、顔が赤らんでいるように見える。
まだ頭がついていかないが、見たことのない表情で言葉を継ぐ前田さんがいじらしく思えた。新聞配達のバイクが通り過ぎる。
「純粋に受信料のことで狙われるなら私は知りませんが」
前田さんは顔を上げ、いたずらっぽく言った。
力が抜ける。私たちはまるで友達同士のように小さく笑い合った。
「その受信料を今から払いに行きます」
きっと間違いなく、私は怒るべきだろう。呆れ果て、憤慨し、すぐに彼女を置いて家に帰るべきところだろう。だけど引き続き、自分で自分がよくわからなかった。なんなら少し幸せな感覚だった。そして胸が痛かった。
「それだけ。巻き込んでしまって本当にすみませんでした。じゃあよろしくお願いします」
そう言うなり前田さんは踵を返しタクシーへ戻って行った。私は次の言葉を飲み込んで、再び歩き出した。

電波塔の正面玄関に着いたが、深夜なのでもちろん閉まっている。『御用の方は裏口へ』と矢印の描かれた看板がかかっており、私は隣のビルとの間の細い道を通り裏口を探した。
電波塔の裏側へ回ると、空手道然とした毛筆で『電波塔裏口』とストレートに書かれた木の看板と安っぽいドアを見つけた。私は深呼吸し、ドアをノックした。建て付けの悪いアルミサッシがバタバタという。
すぐに中から「どうぞ!」と元気な声が聞こえた。
暫し硬直する私。どうぞて、朝四時やぞ…。ええい頭は真っ白、心は純白、私は血走った目を見開き「こんばんは!」と叫びながらドアを開けた。
男が三人も居た。すぐそこに警備のおじさん、カウンターの奥の机にものすごく背の低い男、左手のカウンター手前の通路に上下黒のジャージを着込んだ男。皆、左腕にNHKの腕章を付けている。
「すいません」
「はい、なんでしょう!」
黒ジャージが元気に返事をした。私は黒ジャージの男に見覚えがある気がした。よく見ると頬に四角い物で殴られたような痣がある。
「あ」
私の家の近くで前田さんを車に連れ込もうとしていた男だ。右手にあの時の豆乳アタックの手応えが蘇ってきた。私の右手のビニール袋が「がさり」と鳴った。
黒ジャージがなんとも言えない表情で私の顔と豆乳を交互に見つめる。私はおもむろに口を開いた。
「あの受信料を払いたいのですが」
おもむろにポケットから財布を出し、下を向きお札や硬貨をさわりながら続けた。
「ひと月幾らですか?」
できるだけヤバい人の顔をしてゆっくり顔を上げる。黒ジャージが少したじろいだ。
「お客さん、地上だけですか?衛星も?」
背の低い男がカウンターの奥の方から訊いてきた。意外と低めのがらがら声だ。ちらと警備のおじさんを見ると、死んだ魚の目で直立しており微動だにしない。半魚人だろうか。
「ふざけるな!」
唐突に私は叫んだ。
「二度と俺の前で衛星などと口走るんじゃねぇ。宇宙なんか俺は大嫌いなんだ。宇宙人なんか…」
三人の男は驚き、だが少し目を輝かせて私を見た。警備のおじさんの目にも生気が戻った。背の低い男が立ち上がった。
「だから、地上波だけです。お幾らですか」
私は急に穏やかに言った。
「二ヶ月で二千六百二十円です」
少し間を置いて背の低い男が答えた。二ヶ月刻みなんや、と私は思った。黒ジャージは私を睨みつけ殺気を発散している。私はたっぷり時間をかけて腹式呼吸で息を吸い込んだ。
「た!か!い!高過ぎる!!」
私の怒声で空間がびりびりと震えた。ちょっと超能力パワーが残ってるのかなと思ったが、恐らくこれは私の人間パワーであった。
「責任者を呼べ!お前らじゃ話にならん」
私は大声を張り上げながらぐるぐると部屋の中を闊歩した。三人の男達が極度に緊張しているのがわかる。警備のおじさんは両腕を広げて私の捕獲態勢に入っているが飛びかかるべきか決めかねている。
「早くしろ!」
張り裂けんばかりの私の声に気圧され、背の低い男が黒ジャージに顎で合図をした。黒ジャージが背後のドアを開け部屋を出て行った。上位職者か、あるいは応援を呼びに行ったのであろう。
ゾーンに入っている。私はそう思った。脳内でヤバめの物質が分泌されている。こんな感覚になったのは初めてである。いや、高校の頃山で酒飲んでスクーターで焚き火に突っ込んだ時以来か。とにかくこの重苦しい沈黙ですら私をぞくぞくとさせた。
「あぁ遅いなぁ遅いなぁ」
私はまた大声を出した。背の低い男が苦虫を噛み潰したような顔になる。
その時足音が聞こえてきた。誰でも来い、と私は思った。目が座っているのが自分でもわかる。足音が近づいてきた。一人、二人、三人、少し多くないか?何人分なのか聞き取れないほど沢山の足音がすぐそこまで近づいていた。しかもパタパタという靴音だけでなく、ベタベタいうような粘着質な音、どすどすと重たそうな足音、何かを引きずるような音などが混じっている。獣が荒く呼吸するような音も聞こえる。
集団の気配はついにドアのすぐ向こうにまでやって来た。一瞬静かになる。
いつのまにか私はすっかりゾーンを出てしまっていた。もはやゾーンの出入口はどこを探しても見つからない。
私は喉を潤し心を整えようと、ビニール袋から豆乳を取り出し蓋を開けようとした。しかし手が猛烈に震えてキャップを掴めない。私は目に大粒の涙を浮かべ無意味に半笑いとなった。キャップは掴めない。
諦めて私は、また大きく息を吸い込んだ。息を吸い込み、止め、丹田に力を込めた。
音を立ててドアが開いた。黒ジャージを先頭に異形の集団がこの小さな部屋に入ってくる。
黒ジャージが背の低い男に言った。
「ややこしいんでこいつらの餌にしますわ」
オーマイゴッド。それはいくらなんでもやり過ぎでは…。
背の低い男が、また顎で黒ジャージに合図をした。「やれ」という声が聞こえそうな合図だった。もう口で言えよ、と私は思った。
背の低い男の合図で、黒ジャージを先頭とした異形の集団が私の方へ向かってきた。キメラのような奴、メデューサのような顔に下半身はタコみたいな奴、目が一つで体がゴーレムみたいにごつい奴、パッと見普通やけどもの凄い霊気放ってそうな奴、これがネクストヒューマン達か。私は今のヒューマンがいい。人間のままもっと奥深く強く優しくなりたい。
「きやあああ」
私は絶叫した。絶叫しながら左手でズボンのポケットからある物を取り出す。前田さんから預かっていた魔改造防犯ブザーである。黒ジャージが私に飛びかかってきた。私は身体を軸にコマのように回転しながら、右手の豆乳で黒ジャージに強烈なフックをかました。豆乳はカウンターのタイミングで黒ジャージの頬にクリーンヒットし、黒ジャージを弾き飛ばした。倒れてきた黒ジャージにぶつかり怪物集団全体にブレーキがかかる。
フックをかました勢いのまま怪物達に背を向ける格好となった私は、少し屈んだ姿勢で魔改造防犯ブザーを引いた。
脳が揺さぶられるような巨大な音が鳴り、私以外の者は皆尻餅をついた。部屋の中の小窓にひびが入る。背の低い男のデスクの書類が舞う。異形の者達は皆苦しそうに転げ回っている。
前田さん。私は思った。
前田さん、今です。
ブザーが鳴り響く中、更に大きな爆発音のような音が聞こえ、ビル全体が激しく揺れた。
正面玄関の方だ。私はブザーを止めた。
「今の音はなんだ」
「すぐ確認に行け」
黒ジャージと背の低い男が口々に叫び、異形の者達が慌てて部屋を出て行く。
少し遅れて私もついて行った。
玄関ホールには門を突き破ったタクシーが停まっていた。中には誰も乗っていない。
エレベーターのランプが、誰かが最上階の展望デッキへと昇って行ったことを告げている。
前田さんはやったのだ。私が門番どもを引きつけている間にエレベーターに乗ることに成功した。
異形の者達は慌てふためいている。背の低い男がトランシーバーのようなもので誰かに連絡を取っている。侵入者のことを報告しているのであろう。
二台あるエレベーターのうち残っている方に黒ジャージを先頭に怪物達が乗り込んで行く。
前田さんを捕まえに行くのだ。私の心臓が激しく鳴った。
このままでは前田さんが危ない。助けに向かいたいが、エレベーター前はまだ怪物達に占拠されているしエレベーターは二台とも使用中である。
ホールを見渡すと、私のいる場所のちょうど対角線で結んだ向こうの辺りに非常階段の入口がある。あれで展望デッキまで上がれるかもしれない。
しかし応援に向かったところで間に合うだろうか。間に合ったとしても、ここ一番で前田さんのお荷物になりはしないか。ここいらが潮時なのではないか。
今なら騒ぎのどさくさに紛れ、突入したタクシーが玄関に開けた大きな穴から外へ逃れられる。
どうする?
私は悩んだ。永い永い、おそらく数秒であった。
私は弾かれたように駆け出した。私はまだ、前田さんを父君のもとへ送り出していないではないか。
歯を食いしばり、鬼の形相で唸り声を上げながらホール中央の方へ全速力で駆ける。
捕まえにくる怪物達をかわし、更に加速しながらホールを駆け抜ける。立ちはだかった警備のおじさんはよく見ればやはり半魚人に見える。私は全速力で高い高いハードルを越えるようにして跳んだ。警備の半魚人のおじさんの顔面に私の左足がめり込む。おじさんを踏み倒し、勢いはそのままに非常階段へと駆け込んだ。
エレベーターを超える速さで私は七階辺りまで一気に駆け上がった。心肺は悲鳴を上げ始める。きつい。
それでもへろへろで走り続ける。十一階。ふと振り返るとすぐ下の踊り場に一体の怪物がおりこちらを見ている。私を追いかけてきたのだ。更に階下からは数人の足音が上ってくる。
目が合った怪物がシャーと怖い顔をして口を開けた。私は再び全力で駆け出す。
二十階。展望デッキにはまだ着かないのか。脚がもつれる。振り返ると、追いかけてくる怪物との距離は先ほどまでと変わっていない。奴も必死だ。見れば口から少し泡が出ている。舌もだらしなく垂れている。目が合う。少し息を整えてを開けてまたシャーとやられる。私は駆け出す。
地獄のようなレースを何分間続けただろう。もう最上階の展望デッキでは色々なことが片付いてしまっているのではないか。いや何も考えるな。脚を上げ続けることだけに切れそうな意識を集中させる。
三十二階。どこで振り切ったのか、振り返ると怪物はもういなくなっている。
三十三階。この上が展望デッキだ。
ぼろぼろのティッシュペーパーのこよりみたいになった私が展望デッキに転がり出た。激しく呼吸しながらデッキで何度も寝返りを打つ。吐きそう。ほんまにおれはアホやろか。死ぬ思いで駆け抜けてもここにはゴールテープも喝采も無い。あるとすれば怪物達の歓迎である。もういい、煮るなり焼くなり踊り食いなり好きにしろ、と思ったが辺りは不思議と静かだ。
寝転んだまま見回すと、すぐ側に一体の怪物が横たわっていた。私は飛び起きた。
よく見るとデッキには十数体のネクストヒューマンが倒れている。黒ジャージと思しき男が伸びているのも見つけた。
激しい闘いの跡であろう、デッキのあちこちに損傷が見られた。
頬に冷たい風を感じる。振り向けばガラス張りの壁から天井にかけ、大きな穴が開いている。
私はガラス張りの壁に近づいていった。私の暮らす町、その先に広がる平野とそのさらに向こうの山間部まで一望出来る。空が白み始めている。
私は天井に出来た大穴を見上げた。展望デッキの更に上、格子状の鉄塔に動くものが見える。
ひとりの人が鉄塔を登っている。ジーンズ姿、コートと白いブラウスが風にはためいているのが見える。前田さんだ。
私は夢中で前田さんを呼んだ。呼び止めて何を伝えるつもりなのか。自分でもわからないがとにかく彼女を呼んだ。しかし声は前田さんには届かない。
私は、前田さんを追いかけようと思った。もう一度だけ、顔を見て言葉を交わしたい。見たところ前田さんの近くには追手はいないようだった。
私は小走りでデッキを一周した。そのまま非常階段へ戻る。非常階段の踊り場に物置の扉を見つけた。
ノブを回すと扉が開いた。モップや掃除機などの掃除用具の後ろに、探していた物があった。
私は脚立を担ぎ天井の大穴の下へ戻った。見上げると前田さんは更に高いところまで登っている。脚立に上り天井に手を伸ばす。少し高さが足りない。私は躊躇なく跳んだ。脚立が倒れる。私は天井の穴の縁に掴まり、そのまま腕力で身体を引き上げた。手のひらに傷が出来たが気にならなかった。
自分が今どこにいるかは考えないよう努めたが無駄だった。立ち上がると地上百メートルを超える高さの崖っ淵にいることを全身で感じてしまう。足がすくむ前に前へ、鉄塔の方へと進む。時折強い風に身体が煽られる。
私は前田さんを見上げ、叫んだ。
「前田さん!」
前田さんが振り返った。朝が近づいている。少し明るくなり、ここからなら前田さんがよく見える。彼女も傷だらけだった。前田さんは泣いているようだった。泣きながら鉄塔に掴まっている。
私は鉄塔を登り始めた。手が凍りつきそうに冷たい。全身に激しい震えがきたが、寒さのためか恐怖のためかわからない。震えながらも登り、見上げる。
「前田さん!」
私は叫んだ。最初私は、朝日が差したのかと思った。ペールブルーの空にかかった薄墨色の雲を背負った前田さんの全身が、朱色に光り始めた。
私は必死で登った。前田さんが行ってしまう。
朱色の光をまとった前田さんが鉄塔から手を放した。前田さんは宙を浮遊している。身体の向きを替え、東を向く。
前田さんまであと六、七メートルのところで、私は止まった。
もう一度前田さんに声をかけようとした時、下から音と圧のようなものを感じ私はそちらを見た。
翼を持った鳥人が展望デッキ天井の大穴を抜け、こちらに向けて飛び上がっていた。大きな翼の強靭な羽ばたきで鳥人は一瞬にしてすぐそこまで迫ってきた。
鳥人の狙いは前田さんであった。鋭い鉤爪が高速で前田さんへ襲いかかる。
考えるよりも速く、私は鉄塔を蹴っていた。
大パノラマの町の向こう、遠くの山から上がる太陽が見えた。眩しすぎる光と克明な風音の中で私は宙を舞った。空!と頭の中で声を発する。
空中で私は身体を反り、豆乳の入ったぼろぼろの袋を持った右手を大きく後ろに伸ばす。鳥人とぶつかる寸前、伸ばした身体を思い切り前屈させ、そのまま宙返りするほどの勢いで右手を振り下ろした。豆乳袋の描くナイキのマークのような弧が朝日で煌めいた。
目の前に迫った鳥人の怖ろしい顔が苦悶に歪んだ。豆乳は鳥人のまぶたの辺りを擦り肩に激しくめり込んだ。私はそのまま鳥人の翼にしがみつく。
鳥人は声を上げながらバランスを崩して落ちてゆく。ついに私のビニール袋は破れ、一番先に豆乳が落ちてゆく。私ももちろん落ちてゆく。
私は空気の冷たさと体内を流れる血の熱さを同時に感じていた。
前田さん。落下しながら私は前田さんを見た。前田さんも私を見ていた。
展望デッキを横目に私達は落ちてゆく。
急に温かいものが身体を包み、私の落下が止まった。鳥人と豆乳はそのまま落ちてゆく。
死んだ!?と思いつつ目を開けた。私は朱色の光に包まれていた。柔らかく身体は持ち上げられ、ゆっくりと前田さんの方へと上って行く。
「前田さん」
前田さんは目に少しだけ涙を残したまま微笑んだ。私は前田さんに右手を伸ばした。前田さんの手が私の手にそっと触れた。
朝日が私達を包み込み、発光する前田さんの光と混ざり合い光の洪水のようになった。
「前田さん、行かれるのですね」
前田さんは頷いたように思う。眩しすぎてもう前田さんが見えなかった。
「父が迎えに来ました」
「ひとつだけ教えてください。あなたがスーパーアカギで血を混ぜた惣菜を与え続けた相手は、どうして私だったのですか」
光の中で温かい沈黙が流れる。
「それは」
もう見えない光の中で前田さんは微笑み、言った。
「秘密です」
突然辺りが暗くなった。私達の真上に巨大な円盤が現れ空を覆い隠していた。
次の瞬間、光の大爆発が起こり私は意識を失った。

意識が戻ったとき、自分がどこにいるのかわからなかった。仰向きに倒れている。目を開けると眩しい金色の空が見えた。背中にざらざらした固いコンクリートの地面を感じる。視界の端には伸び放題の草が見える。
生きているようだ。いや、死んだのか。
前田さんが光の中に消え、同時に私は地上何メートルかは正確にはわからないが落ちたら間違いなく何の留保もなく死ぬ高さの上空で意識を失った。それから長い時間が経ったような気もするし、一秒も経っていないような気もする。
朝の光。時計を見ると六時前であった。どうやらあれから、時間はほとんど全く経っていないようだ。
立ち上がってみると、そこは昨夜前田さんが半魚人をぶっ飛ばした河原であった。汽水域らしく大きな魚が跳ねる。それを見て私は反射的にびくっとなる。
静かな朝であった。向こう岸では老人と柴犬が散歩をしている。
終わったのだ。

本格的に眩しくなってきた朝の太陽に目を細めながら、私はボロアパートの安っぽいドアを開けた。
秘密です、と言った前田さんの声が頭から離れない。前田さんは今頃この宇宙のどの辺りにいるのだろうか。
夢だったのだろうか。だったらどこからどこまでが?手のひらには展望デッキ天井の穴を抜けた時に出来た傷が赤く存在を主張している。
前田さん、我が心のマドンナ。彼女はもはや距離も、時間の概念も超えた遠いところに行ってしまわれた。
また会えるだろうか。もし全てが夢だったなら、前田さんは今日もスーパーアカギのレジに立つのだろう。
現実と夢の境は本当ははっきりとは見えないものなのだ。けれど前田さんが現実の外に行ってしまったということは、私の中で確かなことのように思われた。そこを宇宙と呼ぶべきかどうかすらわからない。それでも。
また会えるだろうか。

さて今日は引越しである。
「さて今日は引越しだ」
私は白目を剥き、声に出して言ってみた。
今から荷造りをしても引越し屋が到着する午前八時には到底間に合わない。床にはまだ開いてもいない段ボールが散乱している。
引越し屋には謝って荷造りを手伝ってもらうほかない。私は緩慢な動作で段ボールを一つ拾い上げた。
超能力パワー、私にも宿っていたんだな。前田さんに回収され、今はもうない。
私は手に持った段ボールをもう一度床に置いた。
段ボールに両手をかざす。目を閉じ、呼吸を整える。前田さん、私にパワーを。暗闇の中の光を思い浮かべる。手のひらに熱を感じる。
身体の中で何かが動いた後、放たれた感覚があった。反動で上体が跳ね上がった。腕は少し痺れている。
心臓がどくどくと鳴る。こめかみから汗が噴き出す。今のは何だ。
目を開くと、平たかったはずの段ボールがいびつな箱の形を成している。
私は戦慄した。これは何なのだ。超能力パワー?であれば前田さんが回収したはずではなかったか。
私は状況が飲み込めず暫し呆然とした。
その時、玄関のインターホンが鳴った。脳に直接響くような音であった。私は驚きのあまり尻餅をついた。
引越し屋だろうか。いや、まだ時間が早すぎる。
一体誰なのだ、そこにいるのは。


『ソイミルク・ウインドミル』、完。

2020.05.09 Sat ソイミルク・ウインドミル その3

天使であり宇宙人でもあると、秘密よりもたちの悪い謎の正体を明かした前田さんは、正座の姿勢を少し崩し荒い息をついた。
前田さんにぶっ飛ばされた半魚人は川の深いところに沈んだまま浮かんでこない。息絶えたか、少なくとも気を失ったと見える。それだけ強烈な一撃であったことは、見ていただけでもわかった。
前田さんは言った。
「私はあと一時間は動けません。超能力を使うと、とても疲れてしまうのです。先ほどワゴンに連れ込まれそうになったとき、私が即座に超能力を使い男を撃退しなかったのもそのためです。
間もなく次の追っ手がやって来るでしょう。それも今度は大勢で来ると思います。彼らは超能力センサーのようなものを持っているので、半魚人を倒した私の力を感知したはずです」
「なら、ここから逃げなくては」
あな恐ろしやNHK。私だって本当はあと三日ここから一歩も動きたくないぐらい疲れているが、怪物に捕まってマッドサイエンティストの前に引き渡されるのは真っ平御免である。そもそも受信料の件だけでもNHKからは距離を置きたいのだ。
「でも私はまだ動けないのです」
前田さんが上目遣いに私を見た。少し乱れた髪が頬にかかっている。疲れを露わにしたその顔は異様なまでに美しかった。
この宇宙人め。私は心の中で悪態をつきつつ抑えようのない投げキッスを飛ばしまくりながら前田さんを抱え起こし、背中に負ぶった。拍子抜けするほど、その身体は軽く感じられた。
「負ぶって逃げます」
そう言って私は前田さんを負ぶったまま、堤防を越えて町へ戻ろうとした。前田さんが私の耳元で言った。
「堤防を越えずに、このまま河川敷を下流の方へ向かって行ってください。あそこに橋があるでしょう」
私は振り返り下流の方を見た。ここから一キロメートルほどだろうか。前田さんの指差す先に橋がある。
前田さんは、よほど疲れているためか抗わず私に負われることを受け入れたようだ。髪の甘い匂いがする。宇宙人もシャンプーをするのだ。
「あれを渡ってください。河川敷を進む方が早いから」
確かにそうかもしれない。堤防の際はコンクリートで舗装されており、橋まで一直線に続いている。それにこのまま住宅街に出たら、前田さんを負ぶった私は目立つだろう。私は言われたとおりにした。
河川敷を小走りに進んでいる間も、橋を渡っている間も追っ手の気配はなかった。前田さんに色々聞きたかったが、歩き出して早々に息が上がったので黙々と進んだ。
橋を渡ると、前田さんが土手の下の暗い道を指差した。
「あの道を行ってください」
ここで私はふと「僕帰ったらアカンのかな?」という気持ちになった。しかしそんな事を言い出せる雰囲気ではなかったし、帰って自分が狙われない保証もなかった。そして背中の暖かみをまだ手放したくない気もし、やっぱり私は進むのであった。
心の余裕はなかったが、アドレナリンの為だろうか、息は上がりながらも体力にはまだ少し余裕があるようだった。
暗い住宅街を進んで行くと徐々に明るい建物が目立ち始め、周囲の雰囲気が変わってきた。古ぼけたネオンが物言わず光っている。住宅街の一角が、ホテルや風俗店の立ち並ぶちょっとした繁華街になっているのだった。
「そこに入ってください」
前田さんは一つのラブホテルの入口を指差し、極めて事務的に言った。私の心臓がドキャンと鳴り胸に甘い激痛が走った。
「ここは超能力が外に漏れない特殊な場所なんです」

この場所で起こった一部始終について、詳細には語るまい。それが紳士の嗜み、大人としての余裕である。
ただし話の筋として避けられない事実だけはここで語られなければならないだろう。前田さんの秘密の核心部分である。
紆余曲折すったもんだあり、部屋の中で私と前田さんは、男と女の関係となった。なぜだか井上陽水の「クレイジーラブ」が頭の中ですっごいリヴァーブで流れていた。

照明の薄明かりの下、時間と空間が伸び縮みする部屋の中で、前田さんはぽつぽつと身の上を語ってくれた。

彼女の父君は宇宙人で、母君は地球の日本人だという。両親の馴れ初めについてはよく知らなかったが、母君を誘拐して無理やり関係を結んだとかではなく、ちゃんと愛し合っていたらしい。
子どもの頃に一緒に暮らしていた父君の姿をぼんやりと覚えているが、人間の姿をしていたとのことであった。父君は、前田さんが物心つく頃に生まれ故郷の星へ帰って行かれた。それからは母君との二人暮らしである。
前田さんは人間の姿で産まれ、人間として成長してきた。しかしながら幼少の頃から父親譲りの超能力を発揮、一度保育園で大泣きして園を転覆させたことがある。この事件は前代未聞の極地的大地震として俄かに騒がれ、今も学者達の研究材料となっているという。
前田さんは母君から、超能力を決して人前で見せないようにと言われ育った。もちろん彼女の身を案じてのことだ。十歳の頃にはほぼ完全に超能力の暴発は制御出来るようになった。同時に彼女はあまり笑わない子になった。年齢に見合わない感情のコントロールを行うために、彼女は心そのものをいびつに形成せざるを得なかったのだ。それが前田さんの無表情の由縁であった。
それでも自宅にいる時や部活動中、はからず超能力が表に出てしまうことが時折あった。そのため彼女は部活動を辞めた。
時々山に登り、誰もいない野原で超能力を使うことがあった。空に雲で絵を描いたり、少しだけ浮いて草原を凄い速さで飛び回ったり、地面を上げ下ろししたりした。
そしてその後、決まって一時間程度は疲れて動けなくなるのであった。でも超能力を駆使することに集中する時、自分自身の存在そのものに迫るような、不思議と満たされた感覚があった。
「私は確かに、生きている」
そんなような実感だ。遠く父と繋がっているような気にもなれた。
一度だけ、父の声を聴いたことがある。
中学三年の時だ。クラスメートの男子に告白された。
正直とても嬉しかった。素敵な男の子だった。前田さんの胸は高鳴って、でもどう答えたらいいのかわからず黙り俯いた。そのうちに自分のややこしい事情のことが思われ、面倒くさいような気持ちが広がった。ときめいた心が急速にくすみ萎んでいくのを感じた。無力感と絶望にとらわれた前田さんは、適当なことを言ってその場で彼を諦めさせてしまった。
帰り道、自分自身が憎く、泣けて仕方なかった。前田さんはそのまま山へ向かった。そして山頂を吹っ飛ばした。その時、父君の声を聴いた。
頭の中で鳴った声は、地球の言葉ではなかった。だが前田さんには「父の元へ来るか?」と聞こえた。選択肢が示されたのだ。それは彼女が地球で生きるうえでの精神的な支えとなった。

一方でその「山頂吹っ飛ばし事件」の後から、前田さんは妙な連中につけ狙われるようになった。NHKの男達だ。
男達は腕章を付けて家にやって来た。母君が受信料は支払っていることを毅然と伝えたが、デジタルテレビが使えるかどうか確認したいと言って無理やりに家に入って来ようとした。幸い超能力を使うこともなく追い出すことが出来たがとても怖かった。
やがて前田さんは男達に尾行されていることを知る。男達が狙っているのはデジタルテレビで上乗せされる受信料ではなく前田さんであった。学校の帰りに路上で車に連れ込もうとされたこともあった。
前田さんと母君は男達から逃れようと引越しをした。周囲にも移転先を伝えず逃げるようにひっそりと引越した。引越した先では少しの間平和に暮らせたが、それも束の間、やがてまたNHKの男達が目の前に現れるのであった。そのようにして数回引越しを繰り返した。
そんな日々の中、母君がいつか、どこからともなく情報を仕入れてきた。NHKは単なる放送局ではなく、戦前から日本を影で動かしてきた秘密結社であると。放送局は彼らの活動の一環に過ぎず、その裏の目的は超能力者探しにある。彼らが叡智を結集して開発した「超能力受信器」を職員に持たせ、支払い契約を取りに回る際に超能力者を探す。
彼らは「保育園転覆事件」の時から既に、事件と超能力者の関わりを疑っていた。十年以上経ち、山中で度々奇怪な現象が確認され始めたことでNHKは動いた。あっという間に、彼らは転覆した保育園の園児と「山頂吹っ飛ばし事件」を繋ぎ合わせ、前田さんに迫ったのである。
母君の情報力を、前田さんは疑わなかった。宇宙人と結婚した女性である。母君は底知れない地球人であった。
迅速に、彼女達は身を隠した。取るべき手を模索しながら、NHKからの逃避行を続けた。

「この町に来て二年ほど経ちますが、ついに奴らに見つかってしまいました。もう、これ以上は逃げ続けられない」
前田さんはベッドの上で身体を起こした。狭い部屋の中で、遠くを見る目をしている。
「父親のもとへ行きます」
美しくて悲しい鈴が鳴るような確かな声だった。部屋の空気が小さく波打ったように感じた。私は言った。
「一つだけ聞かせてください。前田さん、あなたは自分を天使だとも言った。なぜそう思うのですか?あなたが宇宙人と地球人のハーフだということはわかったが、天使だということはまだわからない」
薄明かりの中で前田さんは少しはにかんだように、笑ったように見えた。
「母が」
そう言って前田さんはこちらを見た。
「母が父のことを、天使だと言っていたから」
前田さんは泣いていた。今、私の心臓は貫かれた。素敵やん、ほんまに。
すぐに前田さんは落ち着きを取り戻し、ブラウスを羽織り立ち上がった。
「半魚人を撃退してしまった以上、私はいつNHKに捕まるかわかりません。なので今夜中に父のもとへ発ちます」
前田さんはそう言いながら暗い部屋を窓の方へ歩いて行く。
「どうやってお父様の星へ?」
私は尋ねた。前田さんは窓の内側の扉を開いた。ガラス窓が現れ、ネオンの光が差し込んでくる。
「父に迎えに来てもらいます。そのために、今からこの町で一番高い、宇宙に近い場所へ行きます」
「その場所は」
私の声は掠れていた。前田さんは窓の外、遠くかすかに見える異形の建築物を指して言った。
「NHKの電波塔です」


続く。

2020.05.01 Fri ソイミルク・ウインドミル その2

夜の河原に降り立った私と前田さんは、地面の乾いたところを選び腰を下ろした。ハンカチでも敷いてあげられたらよかったのだが、生憎持ち合せがなかった。ジーンズ姿の前田さんはコンクリートの地面に正座している。さて。
「豆乳、飲みますか」
私は快活に言いながら一リットルパックの豆乳を軽く掲げ、にかっと笑い前田さんを見た。前田さんは怯えたような顔をして首を激しく横に振った。私はつぶらな瞳で彼女を見つめながら首を傾げた。
「寒いし、トイレに行きたくなっても困るので」
少し淋しく思ったが無理強いはできない。走って喉が渇いたので私は豆乳を開けた。後で前田さんとシェアする可能性を考慮し、注ぎ口に口はつけずに豆乳を飲んだ。
その時はじめて気がついたが、前田さんはファミマで購入されたスイーツを持っておられなかった。暴漢に襲われた時に落としてしまったのであろう。改めて前田さんを不憫に思った私は、今度は無言で飲みかけの豆乳を彼女に差し出した。けれど前田さんはやはり迷惑そうに豆乳を一瞥し、小さく首を横に振るだけであった。
仕方がないので私は暗い川を眺めた。遠くの橋の灯りが水面に反射している。少し離れたところで大きな魚がしきりに跳ねている。なんとなく海が近い気配がする。

暫く続いた重い沈黙を埋めるように風が鳴っていた。やがて風は止み、前田さんが口を開いた。
「あれはNHK職員ではありません」
私は前田さんの顔を見た。前田さんの言葉の意味するところが私にはわからなかった。前田さんを襲った暴漢は、確かにNHKの腕章を付けていた。
「それはどういう意味ですか。正確にはNHKの職員ではなくNHKから委託を受けた業者の職員ですよということですか」
「違います。あなたが言っているのは受信料の契約を取りにくる人のことでしょう」
話が読めない。前田さんの表情はいつのまにか、すっかりいつもの能面のようなそれに戻っている。前田さんさんはじっとこちらを見て、そして続けた。
「テレビ局というのはあくまでNHKの表向きの姿です。彼らには世間に知られていないたくさんの秘密の顔がある」
彼女は何を言っているのだろう。前田さんの白い無表情を見つめながら、私は周りの空気が薄くなっていくのを感じた。
「知りたいですか」
前田さんが私に問いかける。私は何も答えられない。ただ頭を整理したいのだ。この違和感は何だろう。
「知りたいなら話してあげます。でもその前に、やっぱり私も喉が渇きました。NHK、TNHK…」
「は?」
「N(飲みもの)H(ひと口)K(ください)、TN(豆乳)H(ひと口)K(ください)」
突然前田さんの声が耳元で囁かれたように聞こえ、私は背筋に寒さを覚えた。正体の掴めない不安な感覚に背中の辺りを撫でられながら、私は飲みかけの豆乳を前田さんに手渡した。前田さんの薄い唇が豆乳の注ぎ口に近づいていく。
私は前田さんから目を逸らし、静かに深く息を吐いた。「H(ひと口)」で足りるのだろうか、「TN」なら「豆乳」でなくて「冷たい飲みもの」もいける、などと考えながら川を眺めた。相変わらず魚が跳ねている。水面から跳び上がる魚の体の光沢が妙に生々しく見え、私の興味を引いた。
次の瞬間、魚と同じ動きで、人型で人サイズの何かが水面を跳ねた。
着水したそれが上げた派手な飛沫を信じられない思いで見つめながら、私は驚きのあまり声も出せずに立ち上がった。
前田さんは構わずに話し続ける。
「NHKの秘密の顔。例えばこんなものがあります。超能力や気功やその他の特異体質、突然変異や異種配合などあらゆる方面からヒトという種を次の形態へ進化させることを研究する機関」
たっぷりとした波紋が岸へ打ち寄せてくる。岸にほど近い水面に、蛙と魚と人間の中間のような、不気味な顔が浮かび上がった。恐怖の余り私は叫んだ。
「ネクストヒューマン研究所(NHK)」
私達の目の前に、黒光りする半魚人が立ちはだかっていた。思いの外マッチョな半魚人の左腕には「NHK」の文字の入った腕章がはめられていた。
「ワー意味がわからない」
私は叫んだ。半魚人はぐわぐわ言いながら徐々にこちらに近づいて来る。
逃げなくてはならない。しかし振り返ると前田さんはコンクリートの地面に正座したまま沈黙している。恐怖で腰を抜かしてしまったのかもしれない。彼女を抱え起こし逃げるべきだが、半魚人との距離が近すぎる。抱え起こしている間に捕まってしまう。
一人で逃げるか。一瞬脳裏に浮かんだが、それは言葉として浮かんだだけで映像的なイメージを結ばなかった。前田さんを置いて逃げるという選択肢は、私には無いということであろう。
戦うしかない。腹を決めた私は、武器になるものを求め周辺や足元を見渡した。誠に遺憾ながら「無いよりはマシ?」と思えるものは一つしかなかった。私は必死の形相で半魚人を睨みつけながら少しずつ脚を広げて上体を屈め、一リットルパックの豆乳が入ったビニール袋の転がる地面へ手を伸ばした。一リットル減ったので攻撃力は下がったかもしれないが、より自由に振り回せるはずだ。豆の神よ私に力と勇気を。
豆乳の入ったビニール袋をヌンチャクのように構えた私は、消え入りそうな声で「ホワチャァ」と囁き半魚人と向かい合った。
震える膝と腿を叱咤激励し、いざ半魚人に跳びかからんという刹那、背後で大砲を放つような轟音が鳴り響いた。同時に私の顔のすぐ横をロケットのような速さで何かが通り過ぎた。私は爆風に煽られ倒れながらも見た。正座の姿勢のまま高速で飛ぶ前田さんの両膝が半魚人の顔面に炸裂するのを。前田さんは半魚人を吹っ飛ばしそのまま川の真ん中辺りまで飛んで行き、正座の姿勢のまま空中で旋回してこちらに戻って来た。
私の頭の中はもはや真っ白けっけであった。私はだらし無く口を開け、先ほどと同じ場所に正座のまま着陸した前田さんを見つめていた。そしてやっとのことで前田さんに問いかけた。
「お怪我はありませんか」
貴女は何者なのですか。
「私は天使なのです」
彼女はなぜか心の声の方に返事をした。
「宇宙人ともいいます」
やっぱり訳がわからないということが私にはわかった。


続く。

2020.04.27 Mon ソイミルク・ウインドミル その1

「こんな家嫌いだ」
私は叫んだ。
本当の私を解ろうとしない母に、ではない。夜な夜な酒を飲み私を殴る父に、でもない。単身赴任の一人部屋でだ。
今日もNHK職員の襲撃を受けた。もはや生理的に受け付けなくなったインターホンの音に慄いた私は、椅子に座り気持ち良く爪弾いていたギターを危うく取り落すところであった。
窓から煌煌と灯りは漏れているはずだし、ギターの音も景気良く外に漏れていたはずだ(そしてそれはインターホンを合図にぴたりと止まってしまった)。居留守が通用する状況ではなかったが、かと言って私にはどうすることも出来なかった。そうっとギターを床に置き、小刻みに震えながら私はロダンの彫刻のような姿勢を取り静寂を保った。音を立てるな、流れる冷や汗も気にするな。このままだんまりを通すのだ。
NHK職員は玄関先で暫く粘っていたと見えたが、寒さに耐えかねたか、やがて去って行ったようだった。
今夜も私はなんとか難を逃れた。二回目のインターホンが鳴れば心がばきばきに折れてドアを開けてしまっていたかもしれない。
「許せん…」
ふいに立ち上がった怒りの感情に心が立ち眩みを起こし、私は軽い眩暈を覚えた。彼らは私達の心を攻撃する。精神を追い詰めようとする。こんな怖い思いをし続けるぐらいなら、受信料ぐらい払った方がましだ。払わせてください!私達がそういった心持ちになるまで精神的打撃を繰り出し続けようというのが彼らの作戦なのである。
そんな恐喝めいた行為を、法が後方支援してしまっているのである。こんな不条理がまかり通る世の中であってよいものか。この国はどうなってしまったのか。私の心は正義に燃えた。
酒を飲もう。そう決めた私は部屋着にコートを羽織り、静まり返った夜更けの町へすべり出た。

夜風が身を切るように寒い。三月も半ばを過ぎたというのに、ここ二、三日、まるっきり真冬が戻って来たような感じだ。夜空を見上げると、銀砂を撒いたように星が煌めいていた。半分ほどに欠けた月がまるで作りもののようにぽかりと浮かんでいる。
私は濃密な白い息を吐きながら暫し夜空を見上げた後、足早に歩き出した。
この辺りに気の利いた酒場はないので、私が向かうのは最寄りのファミマである。
ファミマに向かう途中、私は心の中で改めてNHKに対する抗議を始めた。私は昔から熱心なNHK番組のファンだ。あれがファンに対する仕打ちとは到底信じがたい。しかもうちのテレビはリモコンが壊れているのだ。テレビをつけるのも、チャンネルを変えるのも音量を上げるのも全て、ちゃぶ台を離れ四つ這いでテレビまですり寄り、テレビ本体のスイッチを押して行っているのである。これが本当に受信料を納めるべきテレビ自由人の姿であろうか?否、私はテレビに跪く弱者である。彼らはそこを見誤っている。
今週彼らは二回も家にやって来た。それも、私が家に居る時刻を見計らって訪問してきたと見える。これはこれまでとは明らかに様子が異なることである。ついに国家権力が本気を出して私を捕まえにきたと感じる。
しかし…私は笑い出した。
私は逃げきった。私は明日、この町を去る。引越しして別の町で家族と共に暮らすのだ。一人きりでNHKの闇討ちに怯える日々はもう終わりだ。

考え事をしながら歩いていると一瞬でファミマに着いた。私はにやにやと笑いながらファミマに入店した。
緑色の買い物カゴを掴み店内を見渡した瞬間、私の顔からにやにや笑いがサーッと消えた。
そこに前田さんがいた。前田さん、我が心のマドンナ。私は自動ドアの前で棒立ちになった。
前田さんは、私が足繁く通うスーパーマーケット、「スーパーアカギ」でナンバーワンのレジガールである。どんなに他のレジが空いていても、彼女の前には老若男女の行列が出来るという。調査結果によるとだいたい水、木、土曜の午後三時頃から閉店までというシフトでレジのバイトに入っておられる。
前田さんにお目にかかれるスーパーアカギは私にとって、砂漠のようなこの町で唯一のオアシスであった。
今日も私は夕方にスーパーアカギに赴き、もはやお袋の味となったアカギの惣菜を買い求めた。そして迷わず前田さんのレジに並んだ。
前田さんのおさげ髪と能面のような表情、そして無表情から放たれる意外に可愛らしい声に大いに痺れながら私は、勇気を出して少し目を合わせてみようと努めた。今までありがとう、そう心の中で念じながら。しかし前田さんが私の目を見ることはなかった。
店を出る間際、私は振り返りレジ打ちに励む前田さんの背中を見た。その時接客中の彼女が発した「ありがとうございます」という言葉は、間違いなく去り往く私へと向けられたものであった。店内のBGM(LOVE PHANTOM/B'z)が私の心を搔き乱したが、思い出を振り切るようにして私はスーパーアカギを後にした。
切ない別れであった。しかし運命がついに二人を離さなかった。前田さんは今、私の目の前へ舞い戻ってきた。スイーツを物色する前田さんを盗み見る視界がぼやけた。
遅くまで、お疲れ様。そのスイーツおじさんが買ってあげたい衝動を必死で抑えながら、私は意識的に前田さんを意識しないよう意識した。アカギの制服を脱いだ前田さんを最後に見られただけで十分なんである。期待は持たせないで。さぁ、もうそれ買って出て行ってください。

気がつけば私は買い物を済ませファミマを出ていた。私の十数メートル先を、スイーツを下げた前田さんが歩いている。私は前田さんを意識するあまり、アルコール類を購入することが出来なかった。代わりに一リットルパックの豆乳を二つ下げて歩いている。どうしてこうなったのか、上手く説明は出来ない。ただ、前田さんの前ではどうしてもオーガニックな私でいる必要があったのだ。
ファミマ近くの駅を素通りし、前田さんはそのまま道路沿いの道を歩いて行く。前田さんが駅へ向かわなかったことに私は驚いた。スーパーアカギへは電車で通っておられるものと思い込んでいたので、駅まで前田さんを見送るつもりで尾行していたのだ。更に驚くべきことに、前田さんは私の家の方角へ歩いて行かれる。
私の暮らすボロアパートの前を前田さんが通り過ぎる時、私は心の中で「そこです!」と叫んだ。前田さんは構わずにそのままの速度で街道を歩いて行かれる。
白状するがその時私は、世界経済の行く末について考えを巡らせていた。留まるところを知らぬ資本主義の奔流がもたらすものは、更なる分断と地球環境破壊に他ならないのではないか…。深い憂慮が私の思考に立ち込めた。そして考えに没頭する余り私は、そのままうっかり自宅の前を通り過ぎ、前田さんについて行ってしまったのである。うっかり者の私である。
警戒されてはいけないので、私は歩く速度を少し落とし前田さんまでの距離を更に長く保つよう努めた。
家から数百メートルほど行ったところで私はハタと立ち止まった。一体自分は何をしているのか。
さようなら前田さん。遠くから貴女の幸せを祈ります。去りゆく背中にそう心で告げ、私はくるりと後ろを向いた。背中に感じる強い引力に耐え、我が家へと向かう一歩を踏み出したその時だった。
女性の悲鳴が夜の静寂を裂いた。
私は振り返り前田さんを見た。なんということか、暴漢が前田さんに襲い掛かっているではないか。あまりの出来事に、私は雷に打たれたように動けなくなった。
男は街道に停めた黒塗りのワゴンに前田さんを連れ込もうとしているようだ。前田さんは必死で抵抗している。
やがて私の目は男の腕に釘付けとなった。男の腕には、あの忌まわしきNHKの腕章が嵌められていたのだ。
瞬間、私は走り出していた。前田さんが無理矢理車に押し込められようとする寸前、私は無言のまま男に飛びかかり、男の横っ面に二リットルの豆乳の入ったビニール袋のウインドミルをお見舞いした。自分でも「えっ?」と思うほどの壮絶な手応えであった。
身体ごと跳び込んだものだから、豆乳で殴っただけでなく男に乗りかかるような格好となり、男は車のドアにぶつかって倒れた。私はすぐに起き上がり、衝突の弾みで尻餅をついた前田さんに駆け寄り、豆乳で塞がっていない左手を差し出した。
「前田さん、こちらへ」
前田さんは意味不明の上塗りのような展開に戸惑いながらも、助けに来たと思しき私の左手を掴んだ。倒れたNHK職員がうごめいた。私は迅速に前田さんを立ち上がらせると、その右手を引いたまま暗い路地へと駆け込んだ。エンジンの音が聞こえたので振り返ると、脱兎のごとく逃げ去る私達のはるか後方で件の車がライトを点けて街道を走り出したのが見えた。少なくともこの路地を車で追ってくるということはないようだった。

甘美だ。夢中で駆けながら私は思った。
今、恐怖は透明な悦びとなり私の脳を甘やかに刺す。
左手が汗で濡れてきたが、前田さんは不快ではないだろうか。
痛い。右腕がちぎれそうだ。豆乳が重たい。それにビニール袋ががさがさとうるさい。
走り始めてから五分は経ったであろうか。私達は徐々に速度を緩め、肩で息をしながら歩いた。繋いだ手が自然と離れたが、前田さんは何も言わずについて来た。
この辺りで少し休みたい。車が向かった方向とは逆向きに、そこそこ遠くまで来たつもりだ。一つ道を逸れると片側一車線の道路が走っていて、その先に堤防があった。堤防を越えれば川がある。私は堤防を越えてみようと思った。河原は身を潜めるのに適しているかもしれないと考えたからだ。
堤防は私の胸ぐらいの高さであった。私はまず豆乳を堤防の上に乗せ、勢いをつけて登ろうと堤防に手をかけた。ふと気になって振り返ると、前田さんは道路を隔てた向こう側で立ち止まりこちらを見ていた。
私は彼女に声をかけた。
「前田さん」
「あなたはどなたですか」
突然前田さんは責めるような口調で私に尋ねた。私は前田さんの態度に戸惑いながら答えた。
「私は、通りすがりの者です」
そして自分は腹を見せているということをアピールするために付け加えた。
「山田といいます」
偽名だ。
「なぜ私の名前を知っているんですか」
「それは」
私がどう答えようか思案していると、前田さんが口を開いた。
「スーパーに、よく来られている方ですよね」
神様。神はいた。ナンバーワン・レジガール前田さんは、私を認識していた。私は神に感謝した。
私は目を潤ませ、スローモーに微笑んで前田さんを見た。片や前田さんは、疑うような顔でこちらを見ておられる。
「あっ」
私は思わず声を上げた。前田さんは私を、まさに疑っておられるのである。
なんということだ。このままでは足繁く通ったスーパーアカギでの思い出も今夜の事件もすべて、前田さんの中ではおじさんの不純な動機で一繋ぎにされてしまう。
「河原へ行って私をどうするのですか」
「どうもしない」
私は食い気味で答えた。
「歩いていたら目の前で貴女が暴漢に襲われていたので、放っておけなかっただけです。やましい他意は一切ない」
前田さんはほんの少し表情を和らげつつも、なおも疑わしげに私を見た。私は切り返した。
「そう言う貴女こそ、なぜNHKなんぞに襲われていたのですか。心当たりはあるのですか」
「それは」
今度は前田さんが言葉を詰まらせた。
「ひょっとして貴女、受信料を支払っていないのでは」
「違います!私は実家暮らしですよ」
前田さんは激しく否定した。
「じゃあなぜ」
その時、遠くの交差点で車のライトが閃いた。途端に前田さんの顔が不安に包まれた。
「とにかくこちらへ」
私達は夜の河原へ降り立った。


続く。